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2008年 02月 29日

余韻

書道を習い始めました。

と言っても、昨日が初日の授業だったので、これからって感じです。

きっかけは、2年前の個展に書の先生がいらっしゃって、その後素敵な巻き紙のお手紙を頂いたこと。それがあまりに素敵だったので、この先生に習ってみたい、という気持ちになったことと、それから気を線にしていく、心を文字に入れていくという集中力とリズムはジュエリーにも絶対に通じるものがあると思ったからです。

ずっとジュエリーばかり作ってると、他の仕事もしている訳ではありませんから、ずっとジュエリーと向き合っていると、どうしても苦しくなってくるのです。
ジュエリー以外のものが作りにくくなっていたり、ジュエリーであることの必要性が分からなくなって来たり、疑問を持ち始めたら、どこまでも疑問は広がっていくのです。

そんな時、今までどうして来たかと言うと、全く違うものを制作してみたりしました。
服を作ったり、絵本を描いたり。
そうすると、またジュエリーに立ち返ることが出来るというか、「何を作りたいのか」が見えてくるのです。

どうしても、同じ事と向き合っていると、技術だとか、新しい技法だとか、技に走りがちで、本当の根底にある最も大切な部分を忘れがちです。


書道を習うと言っても、字をひたすらに練習するというのではなく、自分の書きたい事を、やりましょうねと先生におっしゃって頂いて、自分の書きたい文を、どんな大きさのどんな紙質に、何色でどんな自体で書き、どんな印をどこに、何色で押して、最後の表装まで、全部やる。というデザインベースの書道を教えて頂くのです。

書きたい事を用意して来てくださいと言われたので、考えた結果、今は亡き祖母の俳句を選びました。
何冊にもわたって、ただ手帳に書き連ねた俳句。
素晴らしい俳句をいくつも作っていたのに、ただ書いて満足していた祖母。
その手帳の一冊を持って、行きの電車の中で読んで、選んだ一句。

もうすぐ春なので、

さくら咲く 枕を白くして ねむる



この初心者に、先生は山ほどの墨の中から、どの色の墨でこの句を書くか選びましょうと言って、墨汁しか使ったことがない私ですが、初めて素敵な青みがかった墨を選んですりました。

墨をすりながら、どういう風に書こうかイメージしてどんどん精神を統一させてください。ということで、すりながら、句の持つイメージを膨らませました。

たった一日の書道の授業から学んだ事は、「墨をする」過程がどれだけ必要であるかということ、ジュエリーだって、デザインをしてから、作り始めるまでのイメージを膨らませる段階をついついはしょっていたなと、思いました。

そして、余韻。

俳句の余韻。言葉の余韻。

前にインドのシタール奏者が、シタールでは耳に聞こえない余韻がいつまでも残ると信じられていて、その余韻が一番大切、と話していたのですが、シタールに限らず、音楽の限らず、この余韻の凄さを実感しました。

よく美術学生がデッサンをしますが、私もそれをやってきた一人なのですが、その時はあまり分からなくても、描くということは、より観るということなのだと気がつきました。

ルーブル美術館で、サモトラケのニケを見て感動して、写真に撮ろうかと思った時、デッサンしたいと思い立ち、久々にデッサンしたのですが、その時、観るっていうのはこれなんだな、と思ったのでした。

それと同じで、文字を書くということは、何気ない事ですが、でも書くことによって、本当に感じることが出来るのだな、と思いました。

今こんな風にタイプしているわけですが、そうではなくて、やっぱり腰を据えて、墨なんかすりながら、何をどう書くかと思いを巡らせ、形にするということは、文字に魂を与えるのですね。

私のへなちょこな文字はどしようもなくても、その心の勉強というか、心の豊かさをたっぷりと勉強させて頂きました。

また家に帰って来てジュエリーを見た時、「余韻」という言葉が浮かんで、ジュエリーでも絶対に「余韻」があるものを作りたい。
むしろ、余韻のためだけに、作ってるのかもしれない。
音楽も、俳句も、詩も、何もかも。
残るものは、余韻だけだなあ。と思いました。

そこから入ったら、何も苦しむ事はなく、面白いものや、はっとするものを求めるから、苦しくなってしまうのだな、と、だってそんなものはさほど重要なものではないから、キャッチーな音楽があっという間に飽きてしまうように。

いつまでも、余韻の残る、細長く、余韻の残るものを作ろうと思ったのでした。
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by aasaag | 2008-02-29 11:44